ドットブロット

本来、読書ブログ。本をフィルター替わりに、日々のよしなしごとを考えます。

少年が読む不思議な少年

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サイクリング・ブック ー discover Japan by bicycling ー

「マーク・トレイン」
「え、マーク・トウェイン、だった、ような、気が」
中学一年の頃の、クラスメートとの会話。
いちおう上が学級委員長、下が僕の言葉。
どうでもいい話。


「トム・ソーヤー」とか「ハックルベリー・フィン」は、
子供向けに編集された本で慣れ親しんでしまっているから、
中学生以上になって、改めて翻訳で読む人は少ないのではないだろうか。
僕がそのパターンで、
いわゆるマーク・トウェイン的でない作品であったので、
じっくり読むことになったのである。
最初に読んだのは、中学校くらいだった筈だ。


不思議な少年 (岩波文庫)

不思議な少年 (岩波文庫)


アメリカ人少年が、そのまま大人になったマーク・トウェインの、
晩年にペシミスティック色が濃くなった頃の作品、とされている。
アメリカ人がそれくらいの年齢・精神状態になったときが、
ちょうど日本人と釣り合いが取れるとも言うことができるかもしれない。
もっとも中学の僕は、劣等感とも虚無ともつかない、
悲観の固まりのような虚弱なガキだったのであるが。
当時の僕には、この本の考え方が、
実に自分の考え方そのままに思えたのだ。


普通に人に触れる表面上の部分はイイカゲンか、
良く言って楽観的に見える人間になったものの、
根底にある考え方は、当時と変わっていない。
この作品はペシミスティックなのではなく、
長い人生経験を省察したならば、当然到達し得る結論であるだけだ。
エネルギーと知力に満ちあふれたマーク・トウェインでなかったならば、
それほどネガティブにクローズアップされるところではなかった筈だ。
多少思想的なバイアスがかかっているとは言えなくもないが、
テーマからすれば、当然のことだ。
ルナールの「にんじん」でにんじんが考えるが如く、
少年がもてあそぶ類の観念であると言えなくもない。
少なくとも、僕が共感したのは、そんな部分である気がしている。
あるいは老いと死を目前にして初めて、
マーク・トウェインはどうにも勝てない相手があることを思い知ったのかもしれない。
浅学の私見だけれど、東洋思想にであっていたような雰囲気も見えないし。


時間を扱ったSFはどれが起源とされているのか、
浅学にして知らないが、
この作品が書かれたのは、ウィキペディアによると1916年。
H・G・ウェルズの「タイムマシン」が1895年発表だそうで、
SF界において、時間と運命を扱ったこの古い古い作品は、
どう捉えられているのだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/タイムマシン
ついで。
筒井康隆に「笑うな」というタイムマシンを扱った短編がある。
これは笑える。