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まるで手記

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「マルテの手記」は、望月市恵訳で読んだ。
北杜夫「どくとるマンボウ青春期」によると、
望月市恵は北杜夫の旧制松高時代の先生である。
リルケなどと聞くと、いかにも芸術、という感じで、
北杜夫つながりでなかったら、僕には手の出ようもなかった筈である。


マルテの手記 (新潮文庫)

マルテの手記 (新潮文庫)


マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記

マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記


芸術とは、っていう議論は、まだ行われたり、考えられたりするのだろうか。
大衆文学という言葉も死語に思えるから、
純文学とか芸術という考えも、若い人にはないのではないだろうか。
自分に関して言えば、そういう議論は、以下になる。
細野晴臣が、古典音楽でも民族音楽でも、ポップスを聴くように聴く、
と言った。うろ覚えではあるが。
手前勝手な理解を拡張して、
形式に依らず、シンプルに、自分にわかりやすい聴き方、読み方をすればいい、
と解釈している。
文学好きな人にすれば、チャチな考え方かもしれず、
またリルケとその時代は、「芸術」というのは
特別なものであったらしいけれど。


詩人の散文というのは、イイ。
詩が苦手というのもあるが、それは別にして、
文章は確かであるし、感覚的であるし、
物語の筋を追う頭の働きが要らない。
「マルテの手記」は、物語となる前の、
感覚の突き出た一人称の文章である。
引き込まれずにはいられない。密度が高い。


リルケ自身の言葉には、
詩人はただ子供時代の記憶に潜り込むべしという由の言葉があった。
マルテの、幼年から青年期までの手記、というのはその現れであろう。
どこからでも読めて、
さらに言えば、理解していなくても読めてしまう。
自分が書いたものにさえ思えてしまう。
リルケの文学の世界は、子供と婦人と老人によってのみ理解される」
そうである。
その評価は、僕にとって心地よい。